天手長男神社

どんな神社?

天手長男神社
 (あまのたながお じんじゃ 又は あめのたながお じんじゃ)

所在地:
長崎県壱岐市郷ノ浦町田中触730番地

由緒:
弘仁二年(811)に「天手長雄神社」として創建、後に「天手長男神社」と一部表記変更。
「延喜式神名帳」にも記載されている神社ですが、鎌倉時代の元寇(蒙古襲来)により廃れてしまい、所在も不明となってしまいました。

江戸時代、この地に復活するのですが、疑問が持たれ、比較的近くの「興(こう)神社」が本来の天手長男神社であり壱岐国一の宮ではないかとする説が有力となっているそうです。

しかしながら『天手長男神社』が存在したことは確かで、仮に現在地ではないとしても、古代において現在地で何らかの祭祀が行われてはいたようです。
詳しくは、この図鑑の後半の記載をご覧ください。

主祭神:
正哉吾勝勝速日 天忍穂耳尊(まさか あかつ かちはやひ あまのおしほみみ の みこと)
天鈿女命(あまのうずめ の みこと)
天手力男命(あまのたぢからお の みこと)

例祭日:
10月13日

周辺の様子


国道382号線を柳田交差点近くで県道に入り、その県道に面して鳥居が立ちます。
小高い丘が目標で、神社の位置はわかりやすいです。
この鳥居をくぐり、こんもりと木々が茂る神域に入ります。
ちなみに、この写真の左手100メートルほどの所、国道から来て森のとっかかりに駐車場があります。


「紀元二千六百年記念」と右側の柱に彫られています。
左側の柱には、昭和十五年一月吉日建立と刻まれています。
昭和十五年(1940)は神武天皇が即位してから2,600年となることから、全国各地で祝賀行事が行われましたが、この鳥居はその際に造られたことを読み取ることができます。


鳥居をくぐると、このような石段ありますが、比較的ゆるやかで昇りやすいです。 


竹林に囲まれた石段の先に、鳥居が見えます。


この鳥居の先に、さらに石段があって鳥居が立ち、社殿の屋根も見えます。


鳥居に掛けられた神額「寶満神社」
ちょっと日陰で分かりづらいですが、昭和四十年(1965)に合祀された寶満神社の社号(神社名)が彫られた額が掛かります。
また、額の上部には如意宝珠(にょいほうじゅ)が彫られていて、珍しいです。
如意宝珠とは、仏教において霊験を表すとされる宝の珠のことです。


二番目の鳥居をくぐると、狛犬が睨みをきかせ、さらに50段ほどの石段があります。

社殿


その石段を上りきると、このように社殿が建ちます。


拝礼ののち、左手にまわると社殿はこのようになっています。
前の部分は拝殿ですが、後部に見える白い壁の建物は鞘堂(さやどう)で、内部に本殿があって、雨風から保護するため本殿を覆っているそうです。

粟島神社


粟島神社
さらに左手に、このような社(やしろ)が建ちます。
中には、赤ちゃんの産着、子どもの衣類などがあります。
元々は安産の神さまをお祀りし、安産を祈ってきたのが、今は子どもの健やかな成長も合わせ祈願するようになったそうです。


社殿の右手、このように石組みがなされ、御幣が立てられている場所があります。
なんらかの神事が執り行われる場のようですが、詳しいことはわかりません。


駐車場に立てられている神社紹介の看板。

歴史

神社創始とその後の経緯

弘仁二年(811)に「天手長雄神社」として創建、後に「天手長男神社」と一部表記変更されています。
社名は、神功皇后の新羅出兵に際し、宗大臣が「御手長」という旗竿に武内宿禰(たけうちのすくね)が持っていた紅白2本の旗をつけ、これを上げ下げして敵を翻弄し、やがて息御嶋(玄界灘の沖ノ島)に立てたという「御手長」に由来するそうです。

「天手長男神社」は、延長五年(927)にまとめられた『延喜式』の巻九・十、いわゆる「延喜式神名帳」(えんぎしき じんみょうちょう)にも記載されている神社、つまり式内社です。

しかしその後、文永十一年(1274)、弘安四年(1281)の二度にわたる元寇(蒙古襲来)により廃れてしまい、所在も不明となってしまいました。

やがて江戸時代になり、壱岐を治める平戸藩主 松浦鎮信は国学者 橘三喜(たちばな みつよし)に、式内社24社の調査を命じます。
当時、天手長男神社は跡かたもなく、橘三喜は老婆から話しを聞いて、神社の跡を探したそうですが、見つけることができなかったそうです。

そこで、「たながお(たなかを)」という地名をもとに、現在の天手長男神社の地が式内社の鎮座地と推測します。

しかし、現在の研究では疑問が持たれ、比較的近くに鎮座する興(こう)神社が本来の天手長男神社であり壱岐国一の宮ではないかとする説が有力となっているようです。
それは、興(こう)は国府(こう)のことであると考えられ、境内に壱岐国総社もあることによるそうです。国府(こくふ、こう)は、奈良時代から平安時代に、令制下の国司が政務を執る施設が置かれた所です。

なお、橘三喜が探した延宝五年(1677)、この地で神鏡1面、石造の弥勒如来坐像2座を掘出しています。弥勒如来坐像には延久三年(1071)の銘があり、国内で三番目に古い石像として、今は国の重要文化財に指定されているそうです。

昭和四十年の合祀

昭和四十年(1965)5月、次の四社が天手長男神社に合祀されています。
 天手長比賣(あまのたながひめ)神社
 物部布都(ものべふつ)神社
 若宮(わかみや)神社
 宝満(ほうまん)神社