原の辻遺跡

原の辻遺跡は「神社」なの?

原の辻遺跡に、厳密には「神社」は存在しません。
しかし、鳥居の始まりの姿や「主祭殿」があり、やがて「神社」につながる、神社の原形の一形態ともいえる様子を見ることができ、興味深いです。今回訪れ、ここに紹介します。

遺跡について知ってもらうことで、弥生時代の人々の神さまとの接し方ないし想いが、より感じてもらえるのではないかと思います。

原の辻遺跡について

弥生時代の環濠集落跡地で、ここは一支国(一大国)の王都でした。
その環濠集落を復元し、今は公園として整備し公開されています。

誰でも公園内に入ることができ、高床式の建物やその配置などを自由に見ることができます。
登呂遺跡(静岡県静岡市)、吉野ヶ里遺跡(佐賀県神埼郡吉野ヶ里町と神埼市)と並ぶ三大弥生遺跡のひとつで、国の特別史跡に指定されています。
特別史跡とは、史跡のうち学術上の価値が特に高いもので、有形文化財の場合の国宝に相当する高い価値のものです。現在、62件が指定されています。

▶参考 壱岐市立一支国博物館サイト
原の辻遺跡の概要について:
http://www.iki-haku.jp/harunotsuji/harunotsuji-1.html

遺跡の復元整備状況について:
http://www.iki-haku.jp/harunotsuji/harunotsuji-4.html

遺跡の様子


この説明板の下半分横長の図柄は、川船の船着き場の再現図です。
大陸から海を渡る船で来て、内海湾で川船に乗り換え、この集落の船着き場に着いた場面です。

 

「長崎県で2番目の大きさを誇る平野〔深江田原(ふかえたばる)〕にある原の辻遺跡は、弥生時代から古墳時代の
初め〔今から約2200年前から1650年前〕に栄えた国内を代表する環濠集落跡で、国の特別史跡に指定されてい
ます。中国の歴史書『三国志』の中に記された「魏志」倭人伝には、壱岐島が「一支国(いきこく)〔原文は一大国と記載〕」の国名で登場し、当時の様子が57文字で書かれています。
「魏志」倭人伝に記された国で”国の位置”と”王都の場所”の両方が特定されているのは壱岐・原の辻遺跡だけであり、倭人伝に記された内容と遺跡の発掘調査成果を見比べながら”弥生時代における東アジアとの交流の歴史”を解明できる国内唯一の事例として注目されています。」

〈遺跡に立つ説明書きより〉

 

「魏志」倭人伝に記された一支国の57文字

【 訳 文 】
〔対馬国を出港し〕南に一海を渡ること千余里で一支国に到着する
この海は翰海(かんかい)と名付けられている
大官は卑狗(ひく)、次官は卑奴母離(ひなもり)という
広さ三百里ばかり、竹木や叢林が多く、三千ばかりの家がある
やや田地があるが、水田を耕しても
皆が食べるだけの量には足りない
南や北のクニグニと交易をして暮らしている〈遺跡に立つ説明書きより〉

 


当時の王都の中心部、復元された集落の全貌

画像右上に見える海は内海湾(うちみわん)で、当時、大陸から船で来る使者は、この湾に来て船を停泊させました。
そして川船に乗り換え、この王都まで来たそうです。


地形図と発掘現場
左上:船着き場跡地 船着き場が発掘、出土するのは、全国的にも珍しい
左下:人面石出土地 人面石は弥生時代後期のもので、先祖の霊を鎮める儀式の際に用いられた祭器
右上:環濠 堀のことですが、深さは1mちょっとと浅く、敵の侵入から守るというより生活用水の利便性という意味合いが大きいのではないかと推測されるそうです
右下:墓域 列埋葬の様子を見ることができます


原の辻遺跡の位置図
壱岐島の南東部、この地図の中央部に位置します。


集落中心地遠望
小高い丘の上に、背の高い高床式の建物が見え、集落(王都)の核が形成されていることが分かります。


丘の頂上部には生垣で囲まれた区域があります。(この写真の左手が生垣の内側になる)
この生垣の内側には、主祭殿や祭器・儀器の倉などが建ちます。

鳥居の始原形態


素朴な自然木を二本一対柱が立ち、その上部に留まっているように見えるのは「鳥」です。現代において鳥居は何種類もありますが、弥生時代のこの集落(王都)では、このような形態だったようです。
鳥居は、神社の神域と人が住む居住域との境、結界をあらわす存在で、神域への入り口を示しています。

ちなみに、「鳥居」という言葉の由来については、諸説あります。
天岩戸に隠れた天照大神(あまてらす おおみかみ)を誘い出すために鳴かせた「常世の長鳴鳥」(とこよのながなきどり)に因み、神前に鶏の止まり木を置いたことが鳥居の起源で「鶏居」を語源とするという説。
熊野の八咫烏(やたがらす)に象徴される、霊妙なる存在の鳥が止まり木とするということからの「鳥居」。
“とおりいる”(通り入る)から転化したという考えなど……

この弥生時代の集落にあっては、一対の自然木を立て、その上に何らかの鳥を立ち止まらせる形で復元したようです。
この写真では、二本の柱のあいだに渡す注連縄(しめなわ)が見えないですが、復元当初は注連縄(しめなわ)を渡してあったそうです。
年月を経るあいだに、注連縄は雨風で朽ちてしまったそうです。

柱を二本立て、そのあいだに注連縄を渡す形態は、現在の「締め柱、締め鳥居」にその姿を見ることができ、その形を伝えます。

主祭殿


手前が「主祭殿」(しゅさいでん)、向こうに見える2棟は倉

鳥居から生け垣内部に入ると、高床式の主祭殿と倉2棟が建ちます。
周囲を巡らす生け垣には出入口が2つあり、それぞれに鳥居が立ちます。

主祭殿は、祭りや儀式を行うための建物で、神と一支国の王が一緒に食を交わす場でもあったそうです。そして、主祭殿内部は王以外の入室が禁じられた神聖な空間です。

この復元建物で興味をひくのは、千木(ちぎ)です。
建物の屋根、一番手前に上部でバッテン状に合わさっている板のことです。

現在目にする千木は、外削ぎ(先端を地面に対して垂直に削る)か、内削ぎ(水平に削る)になっているのが普通ですが、この復元建物では削いでいません。
また、いまでは飾りのようになっている千木ですが、これは実用的なものだったことが見てとれます。


主祭殿の説明書き


主祭殿の内部
今は、仮にでしょうが、土器が置かれているものの、おおよその広さが分かります。

倉(くら)


奥が「祭器・儀器の倉」、手前が「食材の倉」


祭器・儀器の倉についての説明書き
「祭りや儀式に使う道具を納める倉。特別に作られた神聖な道具を置く。」


食材の倉についての説明書き
「祭りや儀式に供える食膳の食材を納める倉。特に選りすぐった収穫物や酒などを置く。」

平屋脇殿


主祭殿の向こう側には、「平屋脇殿」(ひらやわきでん)が見えます。
王が、神との儀式の前に身を清める場だったそうです。

王の館


手前右が、王の館〔一支(いき)国の王〕
向こう中央は主祭殿。近くに、国の重要な場と施設を取り囲む生垣と鳥居もみえます。


一支国王が生活する場。
王の住まいとはいえ、高床式の建物ではなく、竪穴住居。
内部が、少し掘り下げられています。


王の館の内部


館内には、王が所持した、権威を象徴する鏡や剣の数々が再現されています。

物見櫓


背の高い建物が「物見櫓」
その右下には「兵士待機場」と「穀倉」が建っています。

穀倉


柱の脚の部分に、“ネズミ返し”を付けているのが見てとれます。
柱の脚の部分上部に付いている正方形の板状のものが、ネズミ返しです。
倉の中に、ネズミが入らないようにするためのものです。

周辺の様子


丘の上からの遠景
島の内陸方面で、水田が広がります。


山の向こうには内海湾という湾があって、海(玄界灘)ですが、そこに流れ下る川です。
当時、大陸の国から来た使節や客人達は、向こうの湾に船を停泊させ、川船に乗り換え、この川を遡って、ここに来ました。
全国でも珍しい、川船を留める船着き場が、この付近の発掘でみつかっています。
国内最古の船着き場跡です。なお、この写真の右手方向に王都の核である集落が立地する丘があります。

ここ原の辻遺跡は、“神社の原形”が見られることはもとより、弥生時代の歴史を垣間見る場として貴重な地です。石器時代から鉄器時代に移り変わる時代状況も、出土品からよく分かるそうです。

また、時代背景を考えると、大陸と直接交流、交易があった場所ですから、当時の先進地といえるでしょう。大陸と往き来する船が、この湾(内海湾)に停泊して、大陸と往来があったと初めて聞いた時は、びっくりしました。

都会に近い神社ないし遺跡と違って、壱岐に行ったことがある人は、国内全体では比較的少ないかと思われますが、人類の歴史、神社の起源を知る手がかりとして、大変興味深い場所ですね。